豪商から生まれた萬古焼(三重県四日市市)
萬古焼は、四日市市の代表的な地場産業の1つであり、国の伝統的工芸品にも指定されています。その歴史は古く、約260年ほど前に桑名の豪商沼波弄山が小向村(現在の朝日町小向)で作陶を試みたことに始まり、彼は自らの作品が後世に永く伝わるようにと「萬古不易」や「萬古」の印を押し、これが萬古焼の名称の由来になっています。その後、一端途絶えた萬古焼は、中興の祖とも言える森有節によって再興されるとともに、新しい技術を開発して、萬古焼を産業として普及する基礎が築かれました。
〜古萬古〜
元文年間(1736〜1741)に桑名の豪商沼波弄山(ヌナミロウザン)は、別邸のあった小向村(現朝日町小向)の星川あたりに窯を築いて作陶を始めました。
茶道に造形が深い彼は、京焼の陶技を学んだだけでなく、京焼の熟練した陶工を招いたとされ、各種の写し物も巧みで茶陶として一流のものでした。
また、新しい文化の流れに敏感で、洋書の禁が緩められると、異国情緒を漂わせる更紗模様や紅毛文物の意匠を作品に取り入れて、独自の世界を作りだすことになります。後に江戸に移って、その作陶は続けられました。彼の作品は、「萬古」あるいは「萬古不易」の印を捺したために「萬古焼」と呼ばれ、後の再興萬古に対して「古萬古」と呼ばれています。
〜有節萬古〜
天保3年(1832)萬古発祥の地、小向において森有節・千秋の兄弟が新たに窯を開きました。当初、彼らは古萬古の作陶にならった作品を作っていましたが、やがて江戸時代末期の煎茶の流行とともに、煎茶具の代表である急須の生産をめざすようになります。
そして、この急須作りのために従来のロクロによる製法ではなく、木型を使う独自の製法を考案しました。この画期的な木型による急須の製法は、現在の四日市萬古にも受け継がれています。
彼らは、製法だけでなく釉薬にも独自の工夫をしました。仕上がりが不透明になる軟彩は、絵の具のように彩色できます。これで盛絵の技法を使ったり、鮮やかなピンク色の腥嚥脂(ショウエンジ)釉や漆黒の黒釉にその特色が現れています。また、絵柄は復古大和絵の帆山唯念(ホヤマイネン)に師事して草花文を主体とした用いています。
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